キミを知らない(2)

 眼前に広がる映像を虎徹は難しい表情で見つめていた。
 確かにそこに映しだされているのは自分だった。
 何者かに襲われ、咄嗟に攻撃を避け犯人の正体を見やる。
 俯瞰で遠くから映しだされている映像は鮮明と言い難いが、それが自分か自分でないかぐらいは一瞥してわかる程度の物だった。犯人が男ということも見て取れた。
 問題はその映像の記憶が皆無ということである。しばらくして男は虎徹と数発殴り合い、その内の二発が虎徹に当たると走り去っていった。
 肩で息をしながら首を傾げて身なりを整える痛々しい姿の虎徹が、カメラのフレームから立ち去っていって画像は終わった。
「なんすか、これ」
 椅子に座り、足を組んで腕を組んで、ふてぶてしく座っていた虎徹を一瞥するとロイズは呆れた表情を浮かべた。
「虎徹くん、上司に向かってその態度はないだろう」
「無駄ですよロイズさん。ただでさえ彼は何も覚えてませんから」
「ああ、そうだったね。診断結果は」
 隣に立っていたバーナビーは瞳だけ動かして虎徹を見やり、ロイズへと視線を戻した。
 自分の質問に答えるつもりはないらしいとわかり、虎徹は不服そうな面持ちで重い溜息を吐き出した。
「異常なしです」
「まったく、何が原因だっていうんだ?」
 頭が痛い、と額に手を当てて椅子に座ったロイズは肩を落として今後のことを考えていた。
「この男は?」
「ああ。おそらくだが、先日君たちが捕まえた強盗犯グループの残党らしい。君たちに仲間を捕まえられた恨みがあるから、多分彼を襲ったのだろうっていうのが映像解析班からの答えだ」
「虎徹さんがワイルドタイガーだと知って?」
 ロイズは顔を上げるといつもの表情を取り戻し深呼吸をした。いまだ状況が飲み込めない、不満だらけの表情でロイズを睨みつけている虎徹を見て言葉を続ける。
「おそらく。もともとあのグループはサイバーテロなども簡単に出来る頭を持っているらしい。反政府組織と蜜月の関係にあって、今回の強盗事件もその資金繰りの一貫だった」
 その言葉から、バーナビーはひとつの推測を立てた。
「ということは虎徹さんが、ワイルドタイガーという情報をどこからか引き出した、と?」
「そうなるね」
「おいおい、お前らなに物騒な話進めてんだ?」
「あなたに関することですよ」
 しかし、と思い至る。
 虎徹などわざわざ素性を調べあげなくてはいけないヒーローに手を出すのか。バーナビーは本名を明かしているし素顔も晒している。だから自分の方がどう考えても楽なはずだ。虎徹のほうが手を出しやすいとでも思ったのだろうか。それとも何か考えがあってなのか。
「その残党たちの行方は?」
「それがねぇ」
 ふぅ、とあからさまなため息をついて、ロイズは口元に手を添えた。言い渋る素振りを見せて口を開く。
「収容されてる犯人以外は全員死んだんだよ」

 
 帰ると言って聞かない虎徹を家に送り、それから収容されている犯人のもとへ行く事にした。唯一の手がかりは今のところそれしかない。
 バーナビーの車で送られることを断固拒絶する虎徹を強引に助手席に詰め込み車を走らせた。不機嫌な態度を隠さずにいる虎徹は外を眺めながら、決してバーナビーを見ようとはしなかった。
 迷うことなく、戸惑うことなく、的確に車は渋滞を一番回避できる最短ルートを走っていく。
「なぁ、お前は本当に本当に嘘を言ってねぇのか?」
「嘘をというと?」
「俺がお前とコンビ組んでヒーローやってて、俺には娘がいるとかそんなこと」
 ウィンカーを点滅させて、滑らかにカーブをきる。動きは軽快にみえるが、ハンドルは普段の倍以上重かった。風があるからとか、路面が滑るからハンドルを取られるからとかではなく、気分的な問題だ。
「ええ。さっきのロイズさんが僕たちの上司です。嘘は言っていませんよ」
 きれいに磨かれた窓に映る自分を見つめて、虎徹はため息をはいた。
「今の俺は、俺がよくわからん」
「と、いうと? どういう風にですか?」
「例えば俺はどういう仕事をしていたのかとか、どういう暮らしをしてたのかとか。わからねぇんだよ。あと、なんでお前といるか。よくわからん。普通ならお前みたいな赤の他人が目覚めたらいました。つったら通報したりなんなりするだろ?」
 バーナビーは困ったように、でも嬉しそうに笑って「そうですね」と呟いた。
「僕の憶測ですが、あなたは何処かで僕を信用してくれてるんだと思いますよ。自惚れてると言われても仕方ありませんが。まぁでも、あなたの場合は度を越したお節介でお人よしなんで、一概には言えませんが」
「ん?」
「着きましたよ」
 虎徹の家の前に着いた車はウィンカーを点滅させ止まった。ハンドルに体を預け、バーナビーは軽く手のひらを向けておりるように促した。
「まだ少し僕は調べたいことがあるので」
「また明日も来るとか言うんじゃねぇだろうな?」
「その通りです」
「マジかよ」
 苦虫を噛み潰したような顔をして、虎徹は帽子を手持ち無沙汰にさわり、ツバをすこし下に向けて目元を隠した。
 彼が何かしら隠し事をする時や、分が悪い時に彼はその仕草を見せる。だからバーナビーは笑って、目の前に居る男が確かに鏑木・T・虎徹なのだと改めて認識した。
「一つ聞いていいですか?」
「なんだよ」
「ロックバイソン……アントニオ・ロペスについては覚えていますか?」
「ロックバイソン? アントニオ?」
 首を左右に振って答えた。
 バーナビーは険しい表情で目を細めた。彼は自分以外のことを全て忘れているという医者の判断は正しかった。生きるに不自由しない程度の記憶。例えば、どうすれば息ができるのか、というぐらい至極当たり前の知識しかないらしいというのが、医者が下した現時点の判断だった。
 言語障害や社会的な不都合は一切ない。
 だが矛盾が生じているのは虎徹自身も気づいていて、それは医者との問診の間にも何度も引っかかっていた。
 どうやって生計をたて、どうやって生きてきたのか。それは虎徹の記憶に無かった。だからその質問を、その当たり前の事を思い出そうとした時、唯一虎徹は取り乱した。
「そうですか。ありがとうございます。もし、あなたが今の自分に疑問を抱くのであれば、僕達は協力を惜しみません。もっとも、僕は貴方が疑問を抱こうと抱くまいと勝手にどうにかします」
「なんだよそれ。お前ってお節介なヤツな! 俺は別に何も忘れてもいねぇし、困らねぇよ」
 視線が泳いだ。嘘をついている。何か忘れているということに気づきだしているし、今の自分の不確か具合に混乱している。
「お節介はあなた譲りですよ、虎徹さん」
「は?」
「さて。僕はそろそろ行かないと。早く降りて下さい。降りないなら、そのまま刑務所まで行きます? 僕は寧ろ構いませんが」
「いや、降りる」
「じゃあまた明日。迎えに来ます」
「もう俺に構うな」
「構いますよ。あなたが少しでも今の状況に疑問を抱き始めているのは確かなんですから。そうでしょ?」
「るせぇ!」
 勢い良くドアを開け降りて閉めた。バタンと大きな音を立てて車が小さく揺れた。
 虎徹は振り返ることなく家へ入っていった。
 ウィンカーの点滅する音を聞きながら、バーナビーはため息をついて玄関を見つめていた。
 何故彼が標的となったのか。
 何故自分じゃなかったのか。
 何故彼が愛した人や、愛している子どものことを忘れなくてはいけないのか。
 自分が決して踏み入ることの出来ない聖域だった場所を、何処の誰とも分からない輩が踏み荒らし、そして焼き尽くして去っていった。
 ハンドルのふちに額を置いてうつむいた。
 これしきの事で泣くほど弱くはない。親の仇を討つと決めた日から、今以上に辛いことを体験した。それに比べればこれしきのことで泣いてなどいられない。
 だが胸が、頭が、目頭が、全てが痛かった。
「クッ!」
 荒んだ声を大きく上げ、顔を上げまっすぐと前を睨みつけてサイドブレーキに手をかけた。

 前に一度訪れようとした時はすんでのところで引き返した。
 厳重に警備された入口。その先の建物にはヒーローたちが捕獲した凶悪犯や、警察が執念の末逮捕した犯罪人たちが収容されている刑務所。その入口をくぐり、バーナビーは少しでも真実へ近づくために歩き始めた。
 予め話をつけていたので、受付ですんなりと手続きを終えるとバーナビーは面会用の入口へと通された。
 座って待つように言われたので、座り心地の良くないパイプ椅子に腰掛け、足を組み腕を組んだ。
 一番、真実に近づくには犯人から話を聞くしか無い。だがその当の本人たちは既に死んでいる。
 ならば、その犯人たちから近い。そしてこの事件の発端となったであろう男に話を聞くしか無い。
 暫くすると二人の看守に左右を固められた男がやってきた。手錠をし、気だるそうに歩きながらもバーナビーを見て凶悪な笑みを浮かべた。その挑発にもとれる笑みをバーナビーは無表情に流し、男が席につくのを待った。
「ヒーロー様が俺に何の用事だってんだ?」
「質問に答えるだけでいい。無駄な口は叩かないでもらいたい」
 平坦に熱のない声を発し、バーナビーは瞳を鋭く光らせた。
「お前たちのグループの中に、人の記憶を弄ぶことが可能な奴はいたのか?」
 単刀直入でありながら、確信を得ていると言うには力のない言い回しでバーナビーは質問を投げかけた。
 すぐに答えが返ってくるとは思わなかったが、思いの外その台詞が男には楽しくて仕方がなかったらしく、大きな声を上げて笑い始めた。甲高く、そして人を馬鹿にしたような笑いは神経を逆なでする。
 男は手錠でつながれた手を自分の胸元に宛てがい、愉快に笑う。
「それは、俺だ。てめぇがそんな事をわざわざ俺に聞きに来たってこたァ、巧くいったってことだな」
「どういうことだ」
 眉間の皺を深く刻み、バーナビーは先を促した。
「アンタの相棒は何もかも忘れた、だろ? そりゃ俺の命令だ」
「何?」
「アンタの方が簡単だってのはわかってたんだがねぇ。実際に俺を捕まえたのはアンタだろ? アンタの記憶無くして云々したところでアンタは苦しまねぇ。一番苦しむのは、アンタの周りをそうすることだ。簡単に考えても。だから俺はアンタの相棒の記憶を消してやることにした。捕まっていない、顔の知られてない俺の部下が会いに来た時に、な」
「此処での会話は全て録音されている」
「そうさ。そんなもんは誰もがわかってるだろ。だから俺は、わからないようにその事を伝えたまでだ。そして俺の仲間はちゃんとそれをやってくれた……ってことだな。そんで、死んだってことだろ」
「そこまでわかっていたっていうのか」
「ソコまでわかっていたっていうか、ソコまでが俺の命令だったからだよ」
 男の不快な笑い声が響く。
「どうすれば戻る」
「そんなこと俺が言うと思うかィ? まぁ普通はおもわねぇよな」
「答えろ」
「そんな答えをスパーンと言ったところで面白みもなんもねぇだろ? これはゲームだ。アンタを苦しめるための」
 男は笑った。
 バーナビーは男を睨みつけ唇を噛み締めた。
 犯罪者とはほとんどが犯罪をゲームだという。愉しんでいる。そして被害者が苦しむ姿を笑い見る。自分が死ぬ間際となっても楽しむ人間だ。
「言わないぜ、俺は。精精苦しめよ、アンタも相棒さんも」
 それ以上男は何も言わなかった。バーナビーも無言のまま座り、男を睨みつけていたがそれ以上何も聞き出せる事はなかった。バーナビー自身が何かをしゃべることもなかったし、男が何か切り出すこともなかった。
 居心地の悪い無言が続き、面会時間終了という看守の言葉にバーナビーは素直に立ち上がると踵を返した。
 男も立ち上がり、再び看守に左右を固められ出ていこうとした。
「言い忘れたけど。てめぇは一生苦しめ。俺が死んでも、な」
 厳しい声で「黙れ」と看守が戒めると、男は肩を竦めて歩き始めた。
 バーナビーは振り返る事無くその言葉を聞いていた。歩きながら、ドアに手をかけて聞いていたが、深く追求することも、心に留める事もなくドアを開け外に出た。



 記憶喪失7日目。
 特に進展も好転もなければ、後退も悪転もなかった。
 急ピッチに進められていた精密検査の結果が間もなく出るということぐらいが、唯一の進展だったが特に何も期待ができないのが現状だった。
 バーナビーは肘をついてモニターを眺めた。
 アポロンメディアヒーロー事業部の一角。いままでならば煩く人の領域をずかずかと踏み荒らし、更には人の物質的な物まで踏み荒らして仕事の邪魔ばかりしていた男はいない。
 そう、いないのだ。
「はぁ……」
 頭を抱えてため息をつくのはくせになっていた。バーナビーは毎日のように仕事帰りに虎徹の家に立ち寄っては、ロイズや斎藤から得た資料をあれやこれやと見せてやった。
 だが一向に思い出す気配はなく、寧ろいち視聴者として録画したHERO TVの映像など楽しみ始める始末だった。
「だからこれはあなたなんですよ?」
「冗談はよせって」
「本当です!」
 何度言ってもその繰り返しで、虎徹は頑なに目の前にある現実を現実として受け入れなかった。彼にとってはそれこそテレビの中の出来事でしかない。
 ヒーローではない虎徹に『仕事』はなかった。それもそのはずだが、虎徹は首をかしげるぐらいで「そこも覚えてねぇんだよな」と曖昧に笑った。それでも自分はヒーローではないという。
 迷った挙句、溜りに溜まっていた有給を消化させることにした。そして近々アポロンメディアに出向かせ、思い出さないなら記憶を新しくつくれと無茶なことをロイズが言い出した。記憶はなくても身体は覚えているだろうというのが、ロイズを初めとした上層部の意見だった。
「君たちはコンビなんだ。君たち二人が一緒にテレビに出ないと視聴者からの電話が鳴り止まない。なにより、バーナビー君。君も違和感が拭えないのだろう? 最近ポイント落ちてるよ」
 朝一番に呼び出されそう言われると頷くしか無かった。
 だからといっていまの虎徹に闘えるのだろうか。身体は覚えてるに違いないだが今の彼は彼出会って、ワイルドタイガーではない。
 話せば話すほど、その違いが顕著に露見していくのが耐えられなかった。
「どうすればいいんだ、まったく。今までで一番面倒ですよ」
 側にいない相棒に向かって悪態をついて、ひとまず午後一番に虎徹の家に行こうと思った。そこで今日のことを知らせ、シミュレーションで戦えるか否か結論をだして、それから……。
「どうすればいいんだ」
 堂々巡りだった。
 ネットや資料室で様々な資料を漁っても、この現状を打破する方法は何一つない。大体の締め文句は「成り行きに身を任せるしかない」という旨なのだ。もしくは、記憶喪失となるきっかけとなった刺激と同じものを与える、というもの。要するに虎徹の場合はあの監視カメラの出来事が原因だろうから、殴れということだ。殴って治る保証があるなら、いくらでも殴るが保証はないので手は出さない。
 重い息を吐き、静かなことはうれしい筈なのに、この現状が物足りないと思っている自分は、虎徹に十分絆されていると感じていた。


 電話をすると二コールで取り、バーナビーが名乗ると決まって虎徹は声を沈ませて「なんだ」という。
「何だとはなんですか」
「いや、あれ。まぁいいや」
 何か引っかかりがあるらしいが、特に気にすることなくバーナビーの用件を伺う。その都度、バーナビーの中では黒い霧が立ちこめていく。最終的にその霧は飛散していくが、その意味を知っているからこそバーナビーはいつも重い黒い息を吐き出すしかなかった。
 虎徹が無意識に二コールで電話にでてあからさまに気落ちした声を漏らすのは、彼が娘からの電話を待っているからに他ならない。
「バーナビー?」
 何度か名前を呼ばれハッとした。
「あ、すみません」
「んだよ、そっちから電話かけてきて。で、何だ?」
「今日この後一緒に精密検査の結果を聞きに行ってほしいんです。迎えに行きます。今から一時間半後。何かお昼食べました?」
「いや」
「じゃあ食べてから行きましょう」
「わかった」
「ランチを先に。今すぐ向かいます」
 電話を切った。今までは虎徹が自分に向かって言っていた言葉を、まさか自分が言うようになるなんて思いにもよらず、ただただ苦笑いを浮かべていた。
 車を走らせブロンズステージの虎徹の家へと向かった。いろいろと考えてはいるが、答えもなければ堂々巡りでしかない。片手でハンドルを持ちひじをついて、信号待ちをしながら鼻をすすった。赤いランプを見つめながら、何故虎徹がこんな目にあっているのかと考えていた。あの映像が今のところ全てである。何か他に手がかりになりうるもがないかと思考を巡らせていった。だがその思考も赤信号で立ち止まっている。それもずっと。
 もう一度鼻をすすった。信号はまだ赤い。
 虎徹が消息を絶った日を思い出そうとして。
「あ」
 思わず口から漏れていた。
 信号は青に変わり、視界で認知はしていたもののアクセルを踏み込むことが出来ず停車したままだったが、後ろからクラクションを鳴らされ慌てて踏み込んだ。
「そうだ」
 一度見ている。消息を絶つ前に虎徹は自分の家に来た。
「そうだっ!」
 本当ならば今すぐ詰問して答えを導き出したかった。だが急ぐのはあまり得策ではないとバーナビーは考え、ならば医者での精密検査結果を聞くときに話題に出そうと考えた。その方が、第三者も含めており客観的且つ専門的な意見が聞けるかもしれないと思った。
 何度か訪れた部屋の呼び鈴を鳴らせば、すぐに虎徹は顔を見せた。いつも彼が好んで来ているワイシャツとベスト、そしてハンチング帽という出で立ちで。
「よっ」
「こんにちは」


 ランチにと選んだのは会社近くのいつも立ち寄っていた小さなカフェだった。最近この辺りはビルの老朽化に伴い、連日検査や外装補強工事をしているので、昼間でも騒音が絶えなかった。それでもそのカフェを選ぶのは、いつも虎徹と足を運んでいたからこそだった。
 入れば便宜を図って店員は奥の観葉植物で都合よく見えにくい場所を案内してくれる。バーナビーと会社の同僚ぐらいに思っているのだろう店員は、いつもにこやかに対応してくれていた。
 いつものようにランチを注文し、テーブルにおかれたグラスのミネラルウォーターに手をつけた。
 虎徹をちらりと上目でみやると、彼もグラスに口をつけているところだった。喉を上下させ水を飲み、濡れた唇を開いた。
「そういえば」
「え?」
「お前もハンドレッドパワー、なんだよな」
「ええ」
「俺と一緒なんだよな」
「そうです」
 NEXTである、という重要な点は虎徹も曖昧ながら覚えていた。それだけはさすがというべきか、バーナビーは胸をなで下ろしたい気分だった。もしも能力者が記憶を失い、力の使い方、加減などを忘れてしまっていた場合、確実に人を傷つけることになるだろう。初めこそ戸惑っていたが、身体は能力の使い方をきっちり覚えていた。
 だから杞憂に終わった。それだけでも正直、現段階ではかなり良い情報だった。
「俺が仮にお前が言ってた通りヒーローだとして。同じ能力なのにコンビくませて何になる?」
「それは僕も思いましたけど。今ではかなり言いにくいことですが。最初こそあなたは、僕の引き立て役でしかないと上から言われてましたから」
 あからさまに不快そうな表情で虎徹は「あ、そう」と言ってその話題を終わらせた。
 運ばれてきたプレートランチを食べながら、バーナビーは現在の状況を少しずつ問いかけていた。
 やはり何も進展はしていない。そしてヒーローとして働くつもりつもりは無いかという質問に関しても、彼は首を横に振った。
「何故」
「何故って言われても」
 苦笑するしかなく、虎徹はプレートに残っていたトマトを口に放り込んだ。噛み潰すとぐじゅりと中の種の部分が潰れていく。甘く果実のような味を口一杯に広げながら、両手をあわせて食事を終了させた。
「バーナビーさん!」
 普段名前など呼ぶこともない店員が、慌てふためいて二人のテーブルへと駆けだしてきた。
「どうかしたんですか?」
「人がッ……ビルから落ちそうで!」
 店員の言葉を聞くと否や、バーナビーが立ち上がると同時に虎徹は駆けだしていた。
「こ、虎徹さん?」
 慌てて後ろを追いかけた。騒ぎのビルには、すでに何人もの野次馬がいた。
 ビルの工事業者の作業員が作業用リフトから垂れ下がった命綱で中吊りにされていた。引き上げようにも足場が不安定すぎてそれも叶わない。周りの野次馬の声を聞き拾えば、どうやら突風が吹いた時にリフトが揺れ、バランスを崩したという。それほどの設備で工事を行っていた業者にも問題はあるが、今はそれどころではない。
 虎徹は能力を発動させると跳躍した。リフトを操作する車体部分に一度足をつき、さらに勢いをつけて飛び上がる。
 その様子を、バーナビーはただ見上げていた。
 虎徹ならこのあとワイヤーをビルの上に放ち、壁に足をついて作業員を抱えてゆっくりと降りていくに違いない。
 真上に昇った太陽が眩しく光を降り注いでいるコンクリートの上で、目を細めてその様子を見守っていた。作業員を無事に降ろし、礼を言われて虎徹は困ったように笑っている。周りの野次馬からも歓声と拍手を受けながら、少し離れた場所にいたバーナビーのもとへと駆け寄ってきた。
「わりぃ」
「いいえ。寧ろありがとうございます」
「へ?」
 バーナビーは目頭が熱くなるのを感じながら微笑んで見せた。
「やっぱりあなたはヒーローですよ」



 差し出された資料を目に通しバーナビーは首を傾げ、虎徹は眉間に皺を寄せた。
 何度か世話になっている病院は静かだった。ヒーローの治療も請け負っている病院は最新鋭の検査機器がそろっていて、今回の虎徹の検査も世話になっていた。
 担当医は訪れた二人に検査結果がかかれた資料を無言で差し出した。一通り目を通したバーナビーが説明を求めると、小さく頷いて口を開いた。
「単刀直入に単純明快に言えば、先日彼が殴られたという話を聞きましたが恐らく、その時に何かしらの器具を用いて彼の体内に異物を混入させた。というところでしょう」
「ちょっと待ってください。そんなこと出来るんですか?」
「理論的に考えて、なおかつ実際にこういう結果がでていると考えて、可能ですね。ちょうど拳大ぐらいの注入機を手に、こう殴れば」
 そう言って腕を振りかぶった医師を見て妙に納得した。あの日の映像で、犯人は二発だけ虎徹を殴って去っていった。その二発の内にその注入機とやらを使っていたのだろう。
「その異物っていうのは?」
「いくつか検査していた中で気になる点が数カ所ありました。書き換えるというより、破損させると表現する方が的確でしょう。その器具で注入したナノマシンのようなもので、記憶に関する部位を破損させる。もしくは書き換える……あまり私もその辺りは。正直あり得ないとしか言いようがない」
「ですが現に彼はそうなっている」
「そうです。世の中には今や胃カメラなんて飲まなくて、カプセルを飲めばそれがカメラとなって外部のモニターに表示される。そのカプセルの中のカメラは仕事を終えれば排出される。なんて便利なものもありますからね。あり得ないと思えど、あり得ないわけじゃない」
「犯人に聞くが早いですね。口を開くかどうかは別として」
「ええ。とにかく結論から言ってしまえば、彼の記憶は戻る事がない。という事実だけが浮かび上がったということです。なんせ記憶回路の一部を破損されているんですから」
 申し訳なさそうに言った医師の言葉に、バーナビーは苦い顔をして見せた。いまいち話がわならないままだった虎徹は、何も言わないまま険しい表情で資料を見つめていた。
「そうだ」
 はっと表情を変えてバーナビーは虎徹を見やった。
「あなたは覚えているかわかりませんが、あなたが失踪する直前、あなたは僕の家に来た。それは覚えてませんか?」
「は?」
「どういうことですか?」
「僕もすっかり忘れていたのですが、彼は失踪する直前の夜中。僕の家に訪れた。でもその時すでに彼は記憶を失っていたと思うんです。雰囲気が明らかに違ったし、何より僕に殴りかかってきた。数発交わすと彼は『時間だ』と言って去っていった」
「ちょっと待て。俺がお前のところに? そんな話聞いてねぇ!」
「僕だって今日思い出したんです。その事は覚えていますか?」
 虎徹は目線を横にそらして目を細めた。顎に手を当て考えるそぶりは彼そのものだ。だがすぐに首を左右に振ると「わりぃ」と呟く。
「とにかく、もう一度主犯格らしき男のところに行ってみます。あまり期待はできませんが」
 バーナビーの言葉に医師は頷いて、そして頭を下げた。
「力になれず申し訳ない」
「いいえ。こちらこそありがとうございました。変な期待を……持たなくて済む」
 最後の方は力が弱く、消え去りそうな声だった。


「俺も行く」
「あなたまで一緒に行くと面倒なんでダメです」
「んだよ、俺の問題だろ?」
「あなたが出しゃばって好転した事項が今まで皆無なので、ダメです」
 かたくなに犯人の面会についていくと言った虎徹を言いくるめると、バーナビーは一人で再び刑務所へと向かった。すぐに戻ってくると言い聞かせ虎徹を家に送り届けたあと、複雑な心境でアクセルを踏み込んだ。
 もう思い出す見込みはないと言われたらそれはそれで気が楽になった。ふっと肩の力が抜けたと同時に、どうしようもない絶望がおそってきた。
 このままでは、ロイズが提案したとおり彼の正しい記憶を今の彼に上書きしていくしかない。そうして本来の鏑木虎徹を作り上げるしかない。
 静かに滑る車を操りながらこれからの事を冷静に考えている自分に少しばかり驚いていた。
 前と同じように手続きを踏み面会室へと向かった。
 じっと白い壁を見つめ、これからどうすればいいのか答えのない問答を繰り返していた。
 しばらくすると、不敵に、そして楽しげに笑った男が姿を現した。
「これはこれはヒーロー自ら申し訳ない」
「検査の結果が出ました。彼は記憶を未来永劫失ったままという結果が。これはどういうことなのか、説明してもらおうか」
 普段のバーナビーからは考えられないほど冷たく、そして語気の荒い言葉が紡がれて男はさらに唇をゆがめ笑った。
「なぁに簡単なことさ。そのままだ。人間ってのは精巧に出来たロボットみたいなもんなんだよ、体の中は。特に頭の中は。核となる部分を壊してしまえば記憶なんて完全消去出来る。それにさらに手を加えれば、記憶の収容範囲の設定もできる。まぁそれは手間がかかるからやらなかったけどなぁ」
 透明な隔たりを壊し男の息の根を止めてやりたかった。
 だがそれはしてはいけない一線だ。
 必死に踏みとどまるよう、バーナビーは膝の上に乗せた手のひらを強く握りしめた。爪が食い込み痛みが体に走るが関係ない。
「もう一つ。彼が失踪する前日、僕の家にきた。明らかに敵意を持って」
「ああ、ありゃただの余興だ。本当はアンタを殺してやる事も考えたが……それはつまらない」
 男はまるで舞台役者のように、大きな身振りで胸に手をあて悲観した表情を浮かべた。両手をつないで手錠がジャラリと冷たい音を立て、男の笑い声が漏れる。
 それらはすべてバーナビーの神経を逆撫でするだけだった。
「身内、愛する恋人、両親、信頼していた人間に殺されるってのは、なかなかやるせないもんだろ?」
「黙れ」
「記憶回路をぶっつぶしてやったつもりが、どうやらそこは覚えてたらしい。アンタがどれだけ自分にとって大切な人間か。笑わせるもんだ、ほかの記憶はぶっ飛んでる癖にな」
「黙れ!」
「一週間。アンタの相棒さんが失踪していた間、仲間がいろいろほかにも手を加えようとしたらしい。頭にぶち込んだマシンはだいたい三日ぐらいしかもたねぇ。それ以上は電池切れだ。最初はある程度の破損ですませていたが、アンタを殺すために四苦八苦してあちらこちらの記憶を破損させたらああなっちまった。廃人にならなかっただけありがたく思ってやってくれよ、な」
 この身勝手な男のせいで、虎徹はヒーローであることも、大切な妻がいたことも、娘がいることも、ヒーローの仲間のことも、ヒーローとしての相棒の自分のことも。
 そして、現在の恋人であるはずの自分のことも忘れてしまったのだ。

 永遠に。

「今僕がヒーローでなければ、貴方をこの手で殺していたところです」
「ほぉ、どういう風に?」
「どう、が良いでしょうね。正直今も抑えているのがやっとですよ。力を抜けば体が勝手に動き出しそうで。こんなに軽く動けるかもしれないのは、人生で二回目ですよ」
 一度目はジェイクとの死闘を繰り広げ、そして虎徹に背を押されたあのときだった。怪我をして、このまま負けるのではないかという敗北感を感じていたあのとき。背を支えた虎徹の手のひらの熱さは、今思えば怪我のせいだったのだろう。アンダースーツ越しにほのかに感じた人の熱に、身体が一気に軽くなるのを感じた。
 あの時とは違う意味で、今は軽く動けるに違いない。両手両足を抑えている理性という名の、ヒーローという名の枷を外せば身体は勝手に動くだろう。
 この壁を壊し、男の頭を掴み、掌で握りつぶすほどの力で。
「本当、殺してしまいたい」
「アンタの望みは叶えてやるよ」
「は?」
「その前に一つだけヒントをくれてやるよ。アンタの相棒はもうなにも思い出さない。だけどそれだけだ。記憶容量が減っただとか完全に人格が変わっただとかそういう副作用はない。っていうか、そういうところまで手が加えられなかったらしい、あの野郎は。ヒーローってのは化け物なのかい?」
 おどけた口調で男は肩を竦めた。
「彼は、元気だけが取り柄ですから」
「全くその通りだ。おかげでウチの奴らも自信喪失。全員自殺だ」
「自殺?」
「ああ。そして俺も自殺だ」
「自殺?」
 男はこめかみの辺りを数回指先で叩いた。軽く、とんとんとんと小刻みに音を立てて、不敵な笑みを浮かべたまま男は目を閉じた。
「まぁせいぜいアンタは、苦しめ」
 その言葉を残して男はその場に倒れ込んだ。
 駆けつけた監視官が声をかけるも返答はなく、脈を確認して表情をなくした。それを見つめていたバーナビーへと目線をやると、監視官は首を左右に振ってなにが起きたのかと問いかけたが、バーナビーは答える言葉を知らなかった。
「死んでいる」
 監察官の言葉に、バーナビーは身体の力を抜いて、乾いた笑いを小さくこぼした。



 アポロンメディアにいくつもある会議室の中から、丁度ヒーロー全員が入れる広さの場所を選んでバーナビーは虎徹を除く全員を呼び出した。勿論、アニエスやロイズ、そして斎藤も含めてだ。
 丁度よい広さのはずなのにその部屋は広く冷たく感じた。何をもってして呼び出されたのか、誰も理解出来ずにバーナビーを一様に見つめていた。
 ぐるりと顔を見渡した。直接ヒーローとして仕事に関係する顔ぶれが揃った所でバーナビーは言った。
「すみません、突然呼び出して」
「ハンサムが呼び出すなんて、ただごとじゃないんじゃないの? 珍しい」
 椅子に深く腰掛け、足を組んでいたネイサンの声にバーナビーは苦笑した。
「虎徹がいないってことは、アイツ絡みか」
「最近彼は中継にも出ないね。実に心配だ」
 アントニオとキースの言葉にカリーナは不満気な表情をあらわにした。
「アイツは有給なんでしょ? 実家にでも帰ってたんじゃないの?」
「タイガーさんって、オリエンタル出身でしたよね」
「僕ほどじゃないけど、遠いといえば遠いよね」
 続いてイワンとホァンが言葉を紡ぎ、アニエスが苛立ちをあらわにしながらバーナビーの方を向いた。
「で、此処に呼び出して何の用なの?」
 斎藤とロイズはすべてを知っている。今、口々に言葉を紡いだヒーローたちとアニエスは虎徹の現状を知らない。
 バーナビーは大きく息を吸った。
「虎徹さんのことで話しておきたいことがあります」
 さて、どこから話そうかと思う。
 彼が襲われたこと、ナノマシンによって記憶回路を破壊されたということ。すべてを忘れているということ。
 それは勿論ヒーローという存在の自分もを忘れているということ。
 一つ一つ口にしながら、バーナビーはこの現状をどうにか打破できないかと必死に考えていた。考えていたところで答えは出てこない。それはもう一週間も繰り返している日常になっている。
 唖然としながらその場にいた全員がバーナビーの言葉を一言一句逃さずに聞いていた。
 聴覚がそれを認識しても、それを現実として思考が受け入れない。
「何、馬鹿な事言ってんのよ、アンタ。相棒でしょ?」
 カリーナに至っては顔がひくついていた。唇に手の甲を押し当て、この嘘のような話をすべて拒絶しようとしていた。
「馬鹿な事でもなければ、嘘でもありません。これが現実なんです。そして彼の記憶は戻ることがないと医者に言われましたし、唯一の手がかりだった犯人は先程死にました」
「死んだ? どういうことだね」
 それまで黙っていたロイズが声を上げた。彼はこれまでの経緯を唯一知っている存在だ。険しい光が瞳に走り、苦い表情を浮かべたが無理も無い。
「先ほど。面会に行って話をしていました。正直、声を聞くのもいやでしたが少しでも有益な情報が得られればと思いましたけど、特に何も。先ほど皆さんにお話したことを告げると男はその場で。僕の目の前で事切れました。死ぬ間際、こうやってこめかみを叩いてたので恐らく彼はあの部位に何らかのナノマシンを仕込んでいたんでしょうね。八方塞がりになったら自決できるように」
 自決は最悪の逃げであり、最強の防御だ。唇を噛み締めバーナビーは拳を握った。気持ちを落ち着かせるために深呼吸をして瞳を閉じる。平常心を保ち、今はこれからの事を考えて、これからのことを話す。
「これから、虎徹さんにはシミュレーションを主軸にトレーニングをして、そこから現場へと戻ってもらおうと思います。身体は正直覚えているらしいんです。彼のヒーローの信念の根底と共に」
 ランチでの出来事を告げながら、この短時間の間に様々な事が津波のように押し寄せたのだと改めて実感した。第三者目線にたって人に話をするとき、初めてこの状況が広く見渡せる時がある。
 まるで荒唐無稽な作り話のように思えたが、事実なのだと自分の体験した記憶が言う。
 だが、もしかしたらこれはあの男が作り出した作り話の世界の記憶を、自分が埋め込まれているだけかもしれない。もしくはこの世界は夢なのかもしれない。それとも虎徹が悪ふざけをしているのか。
 どの可能性も捨て切れないと考えながら、どの可能性も無いとわかっている。
 現実は今だ。
「ま、アタシたちは相棒であるハンサムの意向に沿うわよ。ねぇ?」
 明るいネイサンの一言にハッと顔をあげると他のヒーロー達も頷いていた。
 少しホッとしてバーナビーは緊張の糸を緩めた。
 一人でも反対したらどうすることもできない。記憶を失っている虎徹をワイルドタイガーとして受け入れてくれる広い心と、協力の手がなければタイガー&バーナビーとしての活動はできなくなる可能性が高い。
 此処に居るヒーローは全員ライバルでありながら仲間だ。全員の協力があるほうが力強いに決まっている。
「ありがとうございます」
「しかし、本当に変わったな」
 笑いが混じった低い声が響き、それがアントニオのものだと気づいてバーナビーは首を傾げた。
「変わった? なにがですか」
「よく虎徹が愚痴ってたんだよ飲んでる時に。お前がよくわからんってな。それに感情的になってすぐ突っ走るからヒヤヒヤするとかなんとか。だけど今のお前はそうじゃないだろ。アイツが知ったら嬉しがるだろうけど、皮肉だな」
 その言葉にバーナビーは眉を下げて笑った。どう反応すればいいのか分からなかった。ふと壁に掲げられた時計を見て、そろそろ虎徹のところへ行こうと考えていた。
 これからのことを、これまでのことを、少しずつ当事者と共にまとめていかなければならない。
 もう一度礼を言ってこの場を終えようと口を開こうとした瞬間。
 アニエスの携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
「はい」
 電話を取ったアニエスの瞳が細められ、艶やかな唇がゆっくりと孤を描いていく。
「はい、わかりました」
 電話を閉じる音が軽やかに走る。
「Bonjour,HERO! 事件よ」


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