空ソラそら

 夜明け前の明け方の空。
 大きく広がるまだ薄暗い空を見上げながら、それでもやはり高いところは恐怖心のほうが勝るものだ。

「そんなに浮かない顔をしなくてもいじゃないか」
「お前、俺が高所恐怖症っていうの忘れてないか?」

 正直、これ以上この場所にいたくもないし早く地に足がつく場所に戻りたい。
 なによりさっきから気分が悪いし震えが止まらない。
 だから空を見上げるより、遠くに見下ろす地面を見るより、今は瞼の裏をみている方が良い。

「忘れるわけないだろう?」
 そう言ってキースは小さく笑うと、仏頂面で眼を閉じた彼を見下ろす。
「それにここからなら直接下を見下ろすほどじゃないし、大丈夫だろう?」
「高所恐怖症なめんなよ」
「これでもダメかい?」
「駄目に決まってんだろ」
 はぁ、と盛大な溜め息を吐いてアントニオはうっすらと光を取り込もうとして、やめた。

 キースは空を見上げ、息を吐きながら苦い笑みを浮かべた。
 風が頬を、身体を優しく撫でていくが、彼に取ってはコレさえも恐怖の一つなのかもしれない。
 苦手なモノは仕方がないとは分かっているが、もったいないと思ってしまう。
 風を自由に操り、空も自由に飛び回る。
 子供でも大人でも誰でも憧れる能力。
 人は空に憧れて、人工的に翼を手に入れたというのに。自分は望むこともなくその翼を手に入れた。
 そして今はその力でヒーローとして生きている。
「なんでこんなとこに連れてきたんだよ、キース」

「え?」
 眼を開けて空を見上げ、アントニオが問いかけた。
 全く意識が別のところに飛んでいたので、慌ててキースはアントニオを見やった。
 ほんの少しげんなりととした表情で空を見上げたまま、瞳だけ動かしてキースと眼を合わせる。
「まぁお前なら、特に意味もなく連れてくる事もありえるが」
「ああ、いやそれはないよ」

 見知らぬビルの屋上。
 肌寒い風が眠気を飛ばす中、遠くに見えるビル群の更に向こう。
「ああほら、夜明けだ」
「は?」
「目を開けて」
「無理」
「大丈夫だから!」
 もう一度力強く「大丈夫だから」と言ってアントニオの手を引いた。
「おいおいおいおい!」
 慌てて、目を開けた。

 本来なら何ものにも塗り替えられない黒が、徐々に明るく溶けていく。
「コレのため、か?」
 まだ夜が明けきらない空は、明るい暗闇という相反する姿を悠然と晒していた。
「ああ、君と見たかったんだ」
「お前なぁ……そういう台詞は俺以外に言え」
「君以外に言う人がいないけど?」
「高所恐怖症の俺をここまで連れてきていう台詞じゃねぇよ、それは」
「そうか……次は頑張るよ」
「何がしたいんだお前は」
 苦笑いを浮かべて問いかけると、キースは屈託の無い笑みを浮かべた。
「何かするのに理由がいるかい?」
 呆れを通り越した。
「いや……いらねぇな。お前らしい」
「本当はもっと空を、自由に感じながらの方が気持ちいいんだがね。君にそれは酷だろう?」
「当たり前だ」
 悪気のない台詞に思わず肩の力を抜いた笑みをこぼした。
「空を飛びながら感じる風は気持ちいい。ヒーローとして闘う時も時折、純粋のこの風だけを感じていたいと思う時がある」
「ほぉ、お前が」
「風は優しい時もあれば厳しい時もある。私はソレを好きに扱える。だから悪人達には容赦せず厳しい風を吹き付ける。だけどーー」
 朝日に照らされた瞳がこちらをゆっくりと振り向いた。瞳が美しく蒼く光る。その目が今まで何を見てきたのか詳しくは知らない。ただ澄んだ瞳は美しかった。
「だけど?」
「本来そういう物騒な風は吹かせたくない。もっと、皆が優しい風に包まれれば私は幸せだと思うんだ。そう思わないかい?」
「流石キング・オブ・ヒーローの台詞だ」
「至って真面目なんだが?」
「ああ、わかってるさ」
 早く地面に足をつけたいと思いながらも、頬を撫でる優しい朝の風と光に少しだけ気分も晴れていた。
「そのためにも俺達はヒーローやってんだろ?」
「ああ……そうだね。さて、そろそろ降りようか」
 手を差し出したキースに、アントニオは一瞬コメカミをひくつかせた。
 来たときと同じ手段を使うというならば丁寧にお断りしたいところである。
「どうしたんだい?」
「いや、だから」
「ああ、心配しなくても大丈夫! そして大丈夫!」
 アントニオの手首を掴むと引き寄せ、頑なにその場から動きたくないと訴える身体を抱きとめた。
「きちんと下ろしてあげるから!」
「ばか、やめろ! ソレが嫌なんだ!」
 馬鹿が、ともう一声上げたところで、身体が重力に逆らうのを感じて意識を飛ばしたくなった。
「いつかのワイルド君のように、お姫様抱っこをしようか?」
「それは遠慮しておく」
「だけど一番安定がいいのはその方法だと思うのだが」
「おい、やめろ!」
 ははは、と軽快な笑いを響かせながらアントニオの身体を抱き上げると軽く唇に口付けて風に舞った。
「あーサイアクだ」
「そうかい? 気分のイイ朝じゃないか」
「そりゃお前だけだ、馬鹿」
 悪態をつきながら眼を閉じて、頭を抱えて受ける風は、恐怖も感じるがどこか優しく心地良いものだった。
 
fine...