Fly me to the moon.【before time】
電話に出ると開口一番に「今日は予定あるかい?」というバーのマスターの声が響き、即座に「あるわけないじゃない」と笑いながら答えた。
いつもの席でいつものようにグラスを傾ける。
隣の席は未だ空いており、いつ待ち人はいつくるのかと思いながら虎徹は少しずつ喉を潤していた。
後方から拍手が疎らに聞こえた。
特に気にすることなく、誰かが歌うのだろうと思いながらグラスを置いた。
なめらかに耳に滑りこんでくるピアノの音は優しく暖かい。
何度も耳にしたことのある曲なのはすぐに分かった。
だが弾き手のアレンジが入っているのだろう。
今までに聞いたことのない雰囲気だったから、気になって振り返った。
「あ」
ひょこりと見えるブロンドと、目を閉じ優しい笑みでピアノを奏でるその人物がカリーナだと気づいた時、彼女の声がフロアを満たした。
ーーあなたのために歌を書いたの
きっとニブイあなたでも、私が言いたいことなら、
分かってくれると信じてるーー
スツールをぐるりと回してカウンターに肘をついた。
この間まで色々と悩んでいた彼女は、彼女なりの答えを出した。
そして今も歌う事も、ヒーローとして活躍することも辞めていない。
どれが正しい答えかというのは、正直誰にもわからない。
ただ彼女が後悔しないのならばそれが答えなのだろうと思った。
自分は背を軽く押しただけだ。
いや、実際は押してもないのかもしれないが。
ーー私を月に連れてって
星たちに囲まれて遊んでみたいのよーー
うっすらと目を開け、鍵盤の上を踊る指を見つめた。
カリーナは口元に無意識のうちに小さく笑みを浮かべて歌っていた。
絶対、伝わるハズはないと分かっていながら。
だからこそあの鈍感な年上の、頼りないヒーローに向けて。
ーー私の心を歌でいっぱにして、ずっとずっと、歌わせて
あなたは私がずっと待ち焦がれていた人なのーー
「彼女、うまくなった?」
次のグラスを持ってきたバーテンに話しかけると、彼は笑いながら頷いた。
「今までも十分うまかったけどね。何より、前よりイイ表情をしている」
「表情ねぇ」
空になったグラスを手にバーテンは言った。
「恋でもしているんじゃないのかい?」
ーー憧れ慕うのはあなただけ
だからお願い、そのままのあなたでいて!
つまり、その……愛してるのーー
余韻を残したピアノの音が静かに溶けていく。
フロアは静寂に包まれていて、カリーナの歌声とピアノの音しか聞こえない。
カランとグラスの氷が音を立てた。
ーーI love you
(気づきなさいよ)ーー
吐息に近い言葉と、ピアノの音がすべて消え去ると拍手が徐々にフロアを埋め尽くしていった。
出てくる時とは段違いの拍手喝采。
歌いきったカリーナはゆっくりと瞬きをして、小さく息を吐き出した。
立ち上がり拍手や指笛で盛り上げるなか、一礼して顔を上げた。
その時、ふと目線を感じた方向へ顔を向けると、見慣れた男が独り。
ステージに近い場所にいた。
目があった瞬間、手招きをする男に踵を返そうかとも思った。
「ノンアルコールなら奢ってやるよ」
その誘いに一瞬迷った。
結局、ブロンドを靡かせ虎徹のもとへ一歩踏み出した。
end...