蜘蛛の巣

ちょっと病んだ兎と虎の話。

 暗い部屋の中での唯一の光源は外の街の灯りだった。シュテルンビルトの夜景を一望出来る、ゴールドステージの高級マンションの一部屋。
「虎徹さん?」
「あ?」
「どこ行くつもりですか」
 ベッドから出ようとした鏑木・T・虎徹の腕を掴んで、その部屋の主であるバーナビー・ブルックスJrは問いかけた。
 お互いに一糸まとわぬ姿で、代わりにむせ返る程の色気をまとっていた。
 片足をぶらりとベッドの外に出して、虎徹はバーナビーを振り返り見た。眠そうな眼で暫くの間バーナビーを見詰め、掴まれていないほうの手を挙げて寝室のドアを指さした。
「トイレ」

 キッチンに立ち寄って冷蔵庫から水を取り出した。いつも空っぽの冷蔵庫には、今はたくさんの食材と水、酒がひしめき合っていた。
 会社に半ば無理矢理に揃って有給申請をしたのが二週間ほど前。ここのところの働きも有ってか、三日というこの繁忙期真っ只中の二人にしては長い休みをロイズは受理してくれた。若干残念そうな表情だったが、それは関係ない。
 手にとった水を振り回しながら、虎徹は寝室へと戻っていった。ドアを見つめるように横になっていたバーナビーに、「ばーか」と声を投げた。
 手にしていた水を頬に当ててやると、片目を閉じて冷たいと呟いた。その唇を塞ぐように口付ける。
「どこも行きゃしねぇよ」
「どこか行ったところで、追いかけますよ」
「地の果てまでお前来るよな、絶対」
「よく分かってるじゃないですか」
「さすがに一年以上一緒にいれば分かる」
「最初の半年は計算に入れなくてイイですよ」
「入れる」
「何故?」
 虎徹は顔を上げ、前髪を掻き上げながら目線を逸らした。
「アレがあっての一年だ」

 * * *

 依存していると気づいたのは、半年ほど過ぎた頃だった。
 口では何だかんだと反発しながら、それでも傍にいるバーナビーに、虎徹は距離を置こうと一歩退いてみようとした。結局無駄だったが。
 振り返ったところで、そこには既に蜘蛛の巣が張られていたというのが正解だ。
 逃げられない。
 明らかに、好意を孕んだ視線を受けるようになり、自分はそんなつもりはさらさら無く、ただいつものお節介精神で接していた。
 その場しのぎの、場当たり的な行動は辞めたほうがいいとは、昔の上司のベンや、親友であるアントニオに言われていた。それを改めて思い知らされた。
 徐々に自分に向けられる好意が気持ちよく感じてきた。そして、伸ばされた手と言葉を弾くこと無く、全て、甘んじて受け入れることにした。
 ただの性欲処理だ、とは自分に言い聞かせて。お互いに甘い言葉など一つも紡ぐこと無く、ただ身体をつなげるだけに没頭した。
「あんた、それ本気で言ってんの?」
「は?」
 一緒にバーカウンターで酒を飲んでいたネイサン・シーモアは、怪訝そうな表情で言った。
「馬鹿じゃないの? お人好しにも程があるわよ」
「そうか?」
「寝言か、酔っぱらいの戯言にしときなさい。奢ってあげるから、何かキツイの飲む? 目、覚めるわよ」
「余計寝るわ」
 グラスの氷を鳴らして、ネイサンはため息を盛大に吐き捨てた。綺麗に手入れされた爪先が虎徹の眉間に向かって伸ばされ、虎徹は皺を刻んだ。
「ハンサム、そんな甘っちょろい坊やじゃないでしょ」
「わぁってるよ」
「何気に楽しんでる?」
「まさか。面倒な物件はそうそう引き払うに限るだろ」
「だったら最初から足を踏み込まなければいいじゃない」
「ほっとけなかったんだ」
「それが馬鹿なのよ」
 半目で虎徹はネイサンを見詰め、唇を突き出して「奢って」と言った。
 馬鹿なのは十分わかっている。
「ちょっとマスター。こいつにスピリタスストレートで。腹立つから二ショット出してやって」
「マジかよ」
「今のあんたはそのぐらい飲んで全部吐き出しなさいよ」
「酒屋の息子なめんなよ?」
「本当に吐かなくてイイから」
「わぁってるよ」
 ショットグラスを二つ置かれ、虎徹はため息を吐いた反動で一気に一つ目のグラスを開けた。喉を通る透明な液体が、全てを焼き尽くしていく。
 アルコール度数九六パーセント。それだけあれば、何もかも焼き尽くせるだろうか。
「チェイサーくれ、水、水」
 ネイサンが差し出したコップの水を一気に飲み干す。焼けた喉に水がしみ込むと、今度はほんのりと甘い味が口内に広がっていく。
「俺がミスったんだろうなぁ」
「分かってるじゃない」
「でもほっとけなかったのも事実だ」
「お人好し、お節介っていうより、馬鹿ね」
「そんな俺の相手するお前は馬鹿じゃねぇのかよ」
「そうねぇ……似たようなものかもね」
 まだ残っているショットグラスをネイサンは指先で掴むと、自分の方へと引き寄せた。
 腹の中も焼かれながら、虎徹はネイサンを上目遣いに見上げていた。
 唇がグラスに触れると、一気に上を向き喉に液体を流し込んだ。口を開け、息を吐き出しながら、ネイサンはグラスを置いた。
「で、どうするの。逃げようと思ったところでもう逃げられないでしょ? 別にだからといってあんたのスタンスに影響はないからイイでしょうけど。それでイイの?」
 誰かに縛られる事は嫌いだった。
 いや、嫌いというよりも好まなかった。自分が愛した人はもうこの世に居ないし、彼女以上に愛する存在を隣に置くなど、到底ムリな話だった。
 だから、やり方が歪んでいると言われても笑って誤魔化す。
 狂ってると言われても、自分はいたって正常だと言い切る。
「イイんだよ」
「そぉ」
「なぁ」
「ん?」
 肘をついて、虎徹は口に孤を描いてネイサンの開けたグラスを、爪でカツカツと叩いた。
「今日お前空いてる?」
「言ってるそばから……悲しいぐらいにガラ空きよ」
 ネイサンの答えに、虎徹は満足気に笑った。
 
 
 キスを交わし、首筋に舌を這わせて肩口に痕を残す。胸元にも花弁を散らすよう痕を残し、そして脇にも、腹にも。
「虎徹さん、これ」
 眼鏡を取って、視界が若干不鮮明なバーナビーは眼つき悪く、虎徹の脇に唇を寄せ、舌が小さく残った痕をなぞった。
「爪あと」
 上に乗って腰を揺らしていた時、無意識に付いたのだろう。
「またですか」
「お前には関係ないだろ」
「関係ありますよ。あなたは僕のものですから」
「いつからそうなったんだよ」
 バーナビーは虎徹の左手を掴み、薬指の指輪に唇を寄せた。根元から口に含み、噛みちぎる様に歯に力を込める。
「バニー」
「僕があなたを無理矢理抱いた日から、ですかね」
 指を舌が絡めとり、指輪を噛んで、ずるずると指輪を外していく。
 それまでただ眺めていた虎徹は、ふとバーナビーの行動に気がついて我に戻った。
「やめっ!」
 指の一部分だけ、皮膚の色が少し違っていた。
「取っても残っている。いっそのこと、噛みちぎってしまいたいですよ、本当に」
 口の中から取り出した指輪を、バーナビーはベッドサイドへ腕を伸ばし置いた。
 無意識に、それに手を伸ばしあるべき場所に戻そうとしていた。虎徹が身体を捻り、腕を伸ばした。それをバーナビーはやんわりと止めて、微笑んだ。
「虎徹さん」
「それは、違う」
「何がですか。あなたは僕のものです。口答えしないでくれませんか? 不快です」
 掴んだ腕をシーツに押し付け、髪を掴んで喉を曝け出し、噛み付いた。
「ぅつ!」

「イイのよ、わたしは。弁えてるもの、自分の立ち位置を。ガキじゃないから」
「アイツはガキってことだな、やっぱ」
「そのガキに現を抜かしたのは何処の誰よ」
「俺だな」
「もっと楽に、楽しみたかったんじゃないの?」
「少なくとも俺は、な」

「ばっか、止めろ、バニー!」
 俯せにされ、腰を持ちあげられると、まだ慣らしていない蕾に、バーナビーは舌を差し入れた。
「ッ!」
 ゾクゾクと身体が震えた。
 慣れているとはいえ、いつになっても入れるまでは快感と不快感とが一斉に身体を襲う。
 ヌチャリ、と音をたてて蕾を解していく。まだ、痛みを与えないだけましだった、と考えるべきか。
 虎徹は時折襲われる快感に身を震わせた。

「でも彼は本気でしょ」
「よくわかるな」
「分かるわよ。伊達に長く生きては無いわよ」
 笑って言ったネイサンに、虎徹は何となく抱きついた。
 背に手を回し、自分よりも骨格の良い肩に顎を乗せて。
「年貢の納め時、ってやつか」
「付き合いきれる自信があるの? あんたに」
 ハッと笑って虎徹は目を閉じた。
 初めてバーナビーに抱かれた日。彼は虎徹を手篭めにした。切羽詰まって、余裕もない表情で。まだ彼が自分の名を呼ぶほど信頼はしていなくて。
 辛辣な言葉と共に、それでも不似合いな言葉を口にした。
 ただそれは虎徹が意識を失う寸前だったが。
 その記憶を掘り返しながら虎徹は、さぁ、と小さく呟いて、腕に力を込めた。
「でも、ほっとけねぇんだ」

 * * *

「虎徹さんは、優しすぎるんですよ。気づいていない。その優しさが他人を傷つける事になるってことを」

 水が入っていたボトルを枕元に投げて、バーナビーは虎徹に口付けながらベッドに組み敷いた。
「物思いにふけって。何思い出したんですか?」
「え? あ……ああ。少し前の。お前に指、食いちぎられるのかと思った時のこと」
 左指は五本あるし、薬指には指輪がはまっている。それが現実で、そして今こうしているのも事実だ。
「ああ、あれですか。本当に僕はあなたの指、ちぎってしまいたいと思ったのはアレが最初でしたよ」
「最後じゃねぇんだ」
「今も思ってますから」
 舌を絡めながら、バーナビーは自分の雄を孔にあてがった。もう何度も開かされた孔は、すぐにバーナビーを受け入れる。日が沈んでから何度身体をつなげたか。ふたりとも分からなかった。
「うっ、あ……はっ……ッ」
「熱いですよ、中。まだ欲しいんですか?」
「ばーか」
 腕を伸ばし、少しの痛みと痺れるような快感を感じながら、虎徹は微笑を浮かべた。
「足りねぇよ、いくらしても」
「僕もですよ、虎徹さん。」
 最奥まで突き上げ、ゆっくりと先端まで引きぬく。ゆっくりなストロークに、虎徹は声を漏らしながら腕の力を込めた。
「離しませんよ、もう。でもあなたは偶に外を見る。それが僕には少し理解できなくて。だから、この三日間だけでも僕はあなたを」
 バーナビーはそこで言葉を切り、満面の笑顔を浮かべた。
「閉じ込めます」
「好きにしろ」
 もう自分は、身動きがとれないぐらい蜘蛛の巣にかかった存在に過ぎないんだ。


 目隠しと手枷をされ、自由を奪われ視界を奪われた。音だけが聞こえる世界で、バーナビーが自分の雄に舌を這わせていることだけが理解できた。
「ッ……は、あぁ」
 後ろ手に拘束されて少しだけ苦しかったが、気にならないぐらいの快感が下肢から体全体を撫で上げていく。
 丹念に愛撫を与えられ、既にはち切れんばかりに膨れ上がり、先端からは蜜がだらだらと流れていた。唇を離せば、ふるりと雄が脈打ち震える。
 今、バーナビーが一体どういう風に自分を見ているのかは皆目見当も付かないが、愉しんでいるに違いないと思った。
「う……んっ、あ、はッ」
 暗闇に遮られた世界が真っ白に染め上がる。快感の限界が一気に身体を襲った。
「い、く……あ、ぅあ……あッ、バニーッ!」
 唇を噛み締め、虎徹は腰を引いた。それを両手でがっちりと押さえ、バーナビーは口内に広がる苦い蜜を味わっていた。
 身体を痙攣させながら、虎徹は最後の一滴までバーナビーの口内に吐き出した。
 唇がすぼめられ、ズルリと音をたて雄から離れていく。そして、息を整えるのに必死になっていた虎徹の顎を掴むと、上を向かせた。
「バニー?」
 嫌な予感はしたが、抵抗する術を持たない。
 虎徹は目隠しの下で、更に目を瞑り唇をうっすらと開けた。バーナビーの唇が触れると同時に、舌が口内に差し込まれ、その舌を伝い今自分が吐き出した蜜が注がれていく。
「ふ……ぁ……んんっ、ん」
 生臭さと苦さに吐き気がこみ上げる。それでも顎を掴まれた身体は動かない。喉を鳴らし、蜜を全て飲み干さなくてはならない。
「覚えてますか。虎徹さん。初めてしたとき、あなたは全部吐き出したの」
「当たり前、だろ……ッ、んなの、飲めるかってんだ」
「今は飲めたじゃないですか」
「誰かのおかげでな」
 自嘲を浮かべた。
「光栄です」
 軽く音を立てて頬に口付け、バーナビーは虎徹の身体を俯せにした。腰を高く上げさせ、既にひくついている蕾に指を捩じ込んだ。
「ふ……ッあ、ぁ」
「流石に何回もしたあとですから、緩いですね。欲しいです?」
 耳元に唇を寄せて囁いた。虎徹は首を振って答え、小さい声で欲しいと言った。
 指を引き抜き、口をぽっかりと開けている孔へ雄を捩じ込んだ。ゆっくりと中に満たされる熱に、虎徹は声を引っ切り無しに上げて身を捩った。
「あ、あ……ああ……ッ、ふ、んぅ……」
「本当、熱いですよ虎徹さん」
「ば、に……ッあ」
「ゆっくり動いてあげますよ、今日は。イきたくてイきたくて懇願するぐらい、ゆっくり」
 耳元で囁くバーナビーの声に、虎徹は身体を震わせ、そして口元だけに艶やかな笑みを浮かべた。
 こうして身体をつなぎ、ひたすらバーナビーの嗜虐心に身体を揺さぶられるのも嫌いではなかった。
 確かに自分も堕ちている。
 
 開きっぱなしの唇の端から唾液が伝い、シーツにシミを残していく。揺さぶり、何度も何度も達しそうになる寸前で全てを止める。
 嫌だと懇願し、イかせてくれという虎徹の声を、バーナビーは嬉しそうに聞きながら全て否定した。
「まだイかせませんよ」
「も……やめ……あ、あぁっ……」
「こんなに焦らされたこと、今まであります?」
「な、い」
 握りしめた雄からは、だらしなく蜜が溢れてバーナビーの手を濡らしていた。ぬちゃりと音を立ててこすり上げると、虎徹の身体が激しく跳ね返った。
「ひ、あ……っあ」
「僕以外に、何人相手してきたんですか、虎徹さん」
 独占欲、依存、嫉妬、その他諸々。
 ワイルドタイガーこと虎徹という男と出会い、バーナビーは今まで感じたことのない感情にさいなまれることが多くなった。そしてそれらは彼を困惑させるに十分な感情となり、暫くの間身体の奥深くに眠っていた。
 いつか、という日は明確に覚えていない。
 だがバーナビーは虎徹という存在を掌握し、そして全て自分のものにしてしまいたいと思った。
 その日から、手段を考えながら会話を交わしていた。
 彼には女性の気配はなかった。あるのは時折匂い男の存在程度だった。
 その中の一人が、同じくヒーローであるネイサン・シーモアだったときは少しばかり驚いた。
 普段は普通に会話を交わし、時折飲みに行っているのは知っていた。その姿を一歩離れたところから眺めながらなお、彼を手に入れるための手段を考えていた。
 彼を手に入れるには、おそらく無理矢理に奪うしかない。逃げ道を。必死にそれらを塞いだ日が懐かしい。
 そうして今、彼は自分の腕の中で、視界を隠され、手首を拘束され喘いでいる。
 いい気分だった。
「虎徹さん……虎徹さん」
 うわ言のように繰り返し、そして虎徹の中を掻き混ぜていく。甘い声が耳に届くと、伸ばされた舌が耳たぶに触れた。
「ッ!」
「バニー……ッ、あ、あ」
 耳たぶを前歯で軽く噛みながら、耳の穴へと舌を滑り込ませる。穴を舐める水音が直に響き、バーナビーは虎徹の中で熱を更に熱く大きく震わせた。
「ハッ……バニー、固くなったぜ?」
「そんな誘い方もできるんですね、虎徹さんは」
 決してイクことのないように、限界ギリギリでバーナビーは虎徹に刺激を与えていった。
 目隠しの下は、おそらく涙でぐちゃぐちゃになっているはずだ。喘ぐ身体を揺さぶりながら、このまま目を布で覆っていれば、軽く失明するだろうかと考えていた。
 三日三晩もそのままでいれば、おそらく四日目の朝、戒めを解いた瞳は眩しすぎる光に焼かれる。そして、一時的に視力を極端に失いかねない。
(それもイイかもしれない)
 自分以外を映す瞳など邪魔だ。
「ねぇ、虎徹さん」
「あ……な、んだ?」
「目、見えなくなるのと抉るのだったらどっちがイイです?」
 バーナビーの提案に、虎徹は顔を歪めて快感を貪りながら、ハッと息を吐き出して笑った。
 その反応が少し意外だったので、バーナビーは首を傾げた。
「お前が好きなようにしろよ」
「殺し文句ですか、それ」
 濡れた唇で孤を描く虎徹を、勢いよく突き上げた。
「あああっ……ッぅあ」
 されるがままに身体を揺らし、既に限界だった。
 声を上げ身体を震わせ、雄の先端から蜜をどろりと吐き出した。勢いは一切無く、焦らされた所為でゆっくりと、たっぷりと蜜はシーツに落ちていく。
 長く弛緩する身体の奥に、バーナビーは全ての熱を吐き出した。背中に唇を落としながら、手首の拘束だけを解いてやり、残った赤い痕に舌を這わせた。
「ば……にぃあ……ッ」
「コレでも感じるんですか? 本当に淫乱ですね、あなたは」
 そこまで仕立て上げたのは間違いなく、自分だ。
 愉悦、満足、快感、不満。
 様々な感情が入り乱れる。
 息を整えながら、目隠しを取ろうとする虎徹の手をやんわりと掴んだ。
「駄目ですよ」
「目元、痒いんだって」
 疲れた笑みを浮かべた虎徹が、また後で付けていいから、と条件を提示したので、目隠しの戒めを解いてやった。



 虎徹を後ろから抱きしめながらの浴室の中。鏡の前で下瞼を指で降ろして、嫌そうな表情をする虎徹を、バーナビーは肩口に顎を乗せて鏡越しに眺めていた。
「赤い」
「兎みたいですね」
「兎ならお前のほうがぴったりだろ」
「今更文句言うのも馬鹿らしいんで言ってませんが、僕はバニーじゃなくってバーナビーですよ、オジサン」
 お互いに鏡越しに見つめ合いながら、一瞬の間を置いて吹き出した。久しぶりのやり取りに、思い出されるのはコンビを組まされた初めの頃だ。
「でも似合ってますよ、その色。いっその事、片目完全に赤くしたらどうです?」
「どうやって」
「コンタクトか、義眼」
 さらりと物騒なことを言ったバーナビーを咎める事無く、虎徹は鏡の中の自分を見つめて、どうだろうかと思った。
 赤い目が似合うとは思わない。だったらまだ、色が白いバーナビーのほうが似合うに決まっている。
「俺は赤色なんて似合わねぇだろ」
「似合ってますよ、今」
「今はだろ」
「目だけじゃなくって、虎徹さんは結構赤色似合うと思いますよ。ほら、血の色とか」
「お前さぁ、さっきからサラっとヤバイこと口走ってるって自覚ある?」
「ありますけど。虎徹さんに隠す必要性は皆無じゃないですか。人前じゃ言いませんよ。滅多な事ない限り」
 その滅多な事を聞こうかと考えたが止めることにした。
 虎徹を抱きしめたまま、バーナビーは腕を伸ばしてシャワーヘッドを手にした。温いお湯を出しながら、虎徹と自分の身体を濡らしていく。
 されるがままに立ったまま、虎徹は下を向いていた。
 お湯が目に入るのを避けるためなのだが、いつ見てもその姿が子供じみていて、バーナビーは好きだった。
 いつもはセットされた少し外に跳ねているくせ毛が、綺麗にお湯でストレートになっていく。前髪が降りると更に幼く見えた。
「また後で目隠ししますか」
「やだ」
「何でですか。いつもより感度上がってたじゃないですか。っていうか約束破らないでくださよ?」
「お前の顔見れないままってのは、やっぱ面白くねぇよ」
 シャワーから流れる水音が、まるで雨音のように響いていた。排水口に流れる水を見つめて、バーナビーはやはり彼を手放したくないと再確認する。
 お湯は吐き出したまま、シャワーヘッドを置き場所に戻し、虎徹の顎を掴んでキスをした。


 優しさにつけ込もうとしたのは、逃げ道を全て塞いだ時だった。それが最後の手段で、そして最後の仕事。
 彼を呼んで、共に酒を飲みながら話していた。ただそれだけだったが、その中に睡眠薬を少しだけ入れておいた。
 眠気に負けて意識を飛ばした虎徹を、バーナビーはただただ見下ろしていた。
 寝息を立て、無防備に身体をさらけ出している虎徹を見下ろして首に手を伸ばした。死なない程度に、苦しくない程度に、力を込めて。
「ん……ッ」
 声を漏らした虎徹に口づけた。
「ば、にぃ……ッ?」
「シッ」
 子供を叱るように、唇の前に人差し指を立て。
「寝てて下さい、虎徹さん」
 そのまま身動きが取れないよう、四肢を縛り付けるために。
 好きだと何度も伝え、愛していると何度も囁いた。
 虎徹は首を振ってそれを否定したが、無理矢理抱きながらも囁き続けた。
 それですぐに堕ちるほど、彼は柔ではない。それでこそワイルドタイガーこと、鏑木・T・虎徹だと思っていたから、バーナビーは何度も何度も伝え続けた。
 何度も無理矢理抱かれても、虎徹は絶対に距離を取ろうとはしなかった。バーナビーが必要とするならば、いてやろうという彼の優しすぎる優しさが、足を鈍らせているのはすぐに分かった。
 身体を縛り付ける、という下劣な手段しか浮かばなかったが、それが一番手っ取り早かった。実際に、虎徹は間もなく堕ちたのだから。
 初めて虎徹から誘ってきた日。バーナビーは目を見開いて、流石に驚いた。
 自分からキスを強請り、噛み付くようなキスをしてきた。
 痛いキスに唇が少し切れた。
 傷口からにじむ血を、虎徹は舐めとってやりながらバーナビーに向かって笑みを浮かべた。
 妖艶というには男臭くて、それでもむせ返る程の色気があった。
 巣にかかった獲物は、思った以上に凶暴だった。


 二度目の夕暮れを眺めながら、テーブルの上に手軽に作った炒飯を置いて、虎徹は小さくため息を吐き出した。
 有給消化二日目。
「おい、ばーにー。ばーにー、バーナビー」
「出来ました?」
 寝室から出てきたバーナビーは、自信満々にテーブルを指さしている虎徹に近づいて、頬に唇を寄せた。
「食料、買いすぎたかもしれねぇな」
「何を今更。分かってたことですよ」
「え、マジで?」
「ええ。僕はそんなに食べるほうじゃないですし。まぁ、足りないで買い出しに行くよりいいじゃないですか。時間が勿体無いですから」
 椅子に座り、二人は一つの皿の炒飯を分けながら少しずつ食べていった。用意した酒を適当に飲みながら、他愛ない話を繰り返していく。
「んで、明日はどうする。また今日みたいに?」
「最初からその予定でしたけど……何か他に虎徹さんが望むなら。出かけます?」
 出かけるつもりなどさらさら無かったので、虎徹は首を横に振って答えて、その話はすぐに終った。
 三日という短い時間。一分一秒を惜しむように身体を重ねていた。疲れたら寝て、起きたらどちらからとも無く求めて。
 時折腹をすかせて虎徹が寝室を出ては、キッチンから適当に食べ物を持ってくる。
 このまま一週間ぐらい過ごしたいと、ベッドの中でぐだぐだとしていた虎徹が呟いて、バーナビーもそれに同意した。
 だが仕事がヒーローである以上、無理な話である。ヒーローを辞めるか、互いに全てを投げ捨てる覚悟がない限り。
「でもまぁ、僕としては三日間とはいえ、あなたの前に僕しか居ないという現実が嬉しいですけどね。僕の前にもあなたしか居ない。幸せですよ、僕は」
「ホントお前、俺のこと好きな」
「ええ」
「依存と独占欲」
「重々承知していますよ、言われなくても。そういう虎徹さんはどうなんですか。僕の相手してる時点で」
「同じ穴のムジナってやつだな」
 スプーンを咥えて、虎徹は目線を外へとやった。窓の外の夕暮れの街を眺めながら、本来自分が居るべき最下層の街を見下ろす。
 この街を守る為に、ヒーローとして戦っている日々。ヒーローで有るために、大切な妻の最期も看取れなかった。
 葬式が終り、墓に眠るのを見送るまで全てを後悔していた。
 涙など出なかった。様々な手配や、仕事の都合をつけたり、当日の運営を兄や母、妻方の親族にも手伝ってもらいながら、まだ幼い楓の手を握っていた。全てが落ち着いてから、それで良かったんだ、と思えるようになるまで時間はかからなかった。
 ヒーローであることを願った妻との最期の約束。
「虎徹さん?」
「ん、あ、わりぃ。全然、関係ないこと思い出してた」
 スプーンを皿の上に置いて、もう一度夕暮れに染まる街を見下ろす。
 表面上普通に過ごしていたが、楓を実家に頼み、一人で過ごす時間が増えるに連れて何かが壊れていった。
 最初の一年は平気だった。
 次の一年は手当たり次第に、後腐れのない関係をあちこちで築くようになっていた。もちろん自分のスタンスに準じた。
「なぁ、バーナビー」
 目線は外に向けたまま。
「お前は俺を、どうしたい?」
 そのスタンスを砕いた男に、虎徹は問いかける。
「このまま監禁して、ずっと僕だけの傍に居てほしいです」
「他には」
「その指輪も含めて、あなたを縛る僕以外のものを全て排除してしまいたいです」
「他には」
 何を聞いているんだろうと気づいて、虎徹は瞼を閉じた。
「あなたをこの手で殺したい」
 歪んでいる。
「それでお前は満足するのか?」
「さぁ、分かりませんよ。ただ思ったこと、言っただけですから。それより虎徹さんこそ、どうしたいんですか?」
 虎徹は言葉に詰まって瞼を開けた。


 有給消化三日目。最終日。
 ベッドで座っているバーナビーの股間に顔を埋め、舌を使い奉仕しながら虎徹は熱い吐息を吐いた。
 じっと見下ろすバーナビーを見上げ、楽しげな色を瞳に浮かべて舌を動かしていた。
 色々と意識が散慢しているのは、虎徹自身一番理解していた。こうしてバーナビーのもとに堕ちた自分が、正しいのかなんて答えは、第三者から求められないし、自分だってわからない。
「もう、いいですよ……自分で入れて下さい」
 促されたとおり、自らバーナビーの上にまたがり、雄を咥え込んでいく。文字通り三日間、暇が出来たら身体をつなげていたので、孔はすぐに受け入れる。
「あー……くそ。絶対緩んでる……ッぁ」
「イイじゃないですか。その方が、明日からもシやすいですし」
 中にバーナビーを受け入れると、途端に身体中に電流が走るように快感が広がっていく。身体が全て覚えこんでいる。
「ん……ぁ」
「動きます?」
「いや……自分で、動……くッ」
 虎徹は手をバーナビーの腹に添え、背をピンと伸ばすとゆっくりと動き始めた。
 最奥を突きあげる熱が生々しく感じられる。
「あ……ぅあ……、ん、あ」
 バーナビーは息を飲み、自分の上で乱れる虎徹を眺めていた。三日と言わず、一生このままずっと二人だけで過ごしたいと思っていた。
 贅沢をしなければ生きていけるだろうし、生きていくに必要最低限のものしか要らないから、金はかからないだろう。
 快感に高揚した虎徹の顔を見つめながら、そんなことをふと考えていた。
 だが一番確実で、そして一番狂っているのは、彼を殺して自分も死ぬことだと思う。そうすれば意識というものはなくなるが構わない。
 歪んでいる。

 電源を切っていた携帯電話の電源をお互いに入れた。カメラとしての使用頻度の方が高い虎徹のスマートフォンにも、バーナビーの携帯電話にも誰からの連絡もなかった。
「何か変な感じだよな」
「変、とは?」
「今の俺達の外とのつながりはコレ一個、だろ? 連絡こなきゃ俺たちは死んでるようなもんだろ。外出てねぇし、ずっとこんなんだし」
「娘さんからの電話でも待ってました?」
「まさか。アイツが電話してくるなんて、早々ねぇよ。だって俺は父親失格だからな」
 苦笑いを浮かべて虎徹はテーブルにそれを戻した。
 バーナビーも閉じた携帯を戻し、さて、と振り返って時計を見やった。
 時刻はまだ昼の十二時を少し過ぎたところ。
「あと半日ほどありますよ、虎徹さん」
「ん? 何か食う?」
 後ろから虎徹を抱きしめると、指を身体に這わせた。ズボンだけ履いてベッドから出てきたので、上半身は裸のままだ。
 脇や腹の痕を残した部分をなぞりながら、耳に舌を這わせていく。
「ッ……あ」
「そんなことより、時間がもったいないんで僕はあなたを抱いていたいですよ」
「食事はいつ、でも……出来るってか」
「そのとおりです」
 身体を這うバーナビーの手に自分の手を合わせ、虎徹はその誘いに答えることにした。

 * * *
 
「ホント、あんたたちって救いようのない馬鹿ね」
 ネイサンの辛辣な言葉に、虎徹は唇を尖らせた。
「うるせぇよ」
 個人のインタビュー収録のためにテレビ局へと向かったバーナビーを見送って、トレーニングルームにきた虎徹を迎えたネイサンと立ち話を繰り広げていた。
 三日間の有給について言及されたので、ありのままに答えたところ、馬鹿の一言で全て一蹴された。
「ヤルことやりながら、ずっとそんなくだらないこと考えてたってこと?」
「あぁ、まぁ。くだらないって言うなよ。俺なりに真剣だったんだよ」
「くだらないでしょ。答えはとうの昔に決まってるし、今更考える必要性皆無な事を無駄に掘り返して。ってことでしょ。それとも何? ハンサムとのセックスに飽きたとか?」
 目を細め笑ったネイサンに、虎徹は両手を挙げて降参のポーズをとる。
「そんなことしたら俺殺されるから、アイツにマジで」
 声は笑っているが、言っていることは事実だ。
 バーナビーの執着っぷりはネイサンもわかっていたので、肩を竦めてその話題は終りにしてやった。
「ま、いいじゃないの。三日も水入らずで過ごせたなら。周りに迷惑かけないていどに色々やってよね」
「端からそのつもりだよ」
「どうかしら。あんたもだけど、やっぱりハンサムは目の前が見えなくなること多そうだけど。本当、殺されないようにしなさいよ。手出ししないから」
 ヒラヒラと手を振って去っていくネイサンに、虎徹は同じように手を振りながら笑い返した。
 だが心のなかで、もう手遅れなんだと呟いて。
「逃げ道は、アイツが全部奪ったからなぁ」
 身体を縛り、思考を縛り、バーナビーは確かに虎徹の退路を全て塞いだ。それがこの三日間で顕著に現れたと思う。
 いつも頭の片隅に、過ぎたこととはいえバーナビーとの会話や、ネイサンとの会話を含め、根本的にバーナビーとの一年と少しの記憶しか現れなかった。
 もう十分、縛られている。
 蜘蛛の巣を張り巡らし、バーナビーは虎徹が近づいてくることだけを待っていた。そして、ゆっくりと近づいた虎徹を、丁寧に絡めていった。
「俺も相当だな」
 わかっていながら拒絶できないまま、その糸を甘んじて受け入れた。最初は彼というバディを失いたくないという思いだけだった。
 今は、彼という存在を失いたくないだけだ。
 だから離れない。
 そして、離れられない。お互いに。
 いつか死ぬときは彼の腕の中か。それとも彼の手によって息の根を止められるか。
 物騒なことを考えている、と自分で気づいて、バーナビーに感化されていると気づく。
 ため息ばかりが漏れるなか、ふと虎徹は思い出した。
「あ」
 今までは娘からの連絡が来ないかと心待ちにして、肌身離さず持ち歩いていたもの。
「携帯忘れた」
 今はバーナビーの部屋のテーブルの上に、静かに鎮座しているということを。
「……ま、いっか」
 バーナビーとの連絡は最悪PDAで取ればいい。
 そんな考えに至りながら、今日もあの部屋に帰らなければいけないのだと思い出して小さく息を吐いた。
「まぁ、今更か」
 逃げ道はもう無い。あとは死ぬその日まで食われ続けるだけだ。

END