時計じかけの恋人

2011.07.31.「みんなのおじさん」にて無料配布。

 頭の重さと身体の重さで立ち上がることも、息をすることも面倒臭くなっていた。湿った、鉛のようにどす黒い息を吐き出して、頭を抱えた。頭も重い。このまま床に倒れこんでしまったほうがいっその事、楽なのだろうか。考える。考える事も億劫になっていく。
「バニー?」
 ぐるり、と首を、身体を動かして振り向いた。気の毒そうにこちらを見つめる虎徹は呆れた様子で肩を落とした。
「大丈夫か?」
「ええ……少し、気分が悪いだけですよ。外は雨が降ってますし。天候が悪いと身体が重くなりませんか?」
「なるな」
 近づいてきた虎徹は同意しながらも、彼の様子のおかしさが、それによるものではないと理解していた。
 ここに来て何日になるのか。もう時間の感覚さえ失いつつある。全ての連絡手段を断ち切り、物質的に破損させ、いつものように柔和な笑みを浮かべたバーナビーを見たのは、一体いつのことか。
 床に膝をつき、バーナビーの手を握りしめた。頬にあてがい、自然とすべらせ唇をあてがう。ゆっくりと瞼を閉じ、開ける時に窓辺を見やった。
 外は雨だ。時間はわからない。たぶん夕方か。少なくとも朝ではない。どうしてこうなったのか。と思いだそうとしても、もう記憶も不確かだ。
「買い物。もう何も無いぞ」
 虎徹の言葉に、バーナビーは重い身体を起こした。テーブルの上に鎮座しているパソコンを操作し、近所のスーパーマーケットのサイトへと飛ぶ。ここなら、配達も請負ってくれる。家にいて全てのことが出来るのだから、家から一歩も出なくても暮らしていけるということだ。
「ここで」
「ん。何かお前は欲しいもんあるか?」
「いいえ。虎徹さんがいれば、それで十分ですよ」
 口元に笑みを浮かべ、眼を細めて言った。他意はない。そのままの意味だ。虎徹は唇を尖らせて不満気に目線を、パソコンへと向けた。
「知ってるよ」
 マウスを操作し、幾つかの食材をカートへと入れていく。ほとんどが冷凍食品や酒類、インスタント食品に偏るのは仕方がない。それでも一応、生鮮食品も幾つかクリックして最後に購入ボタンを押した。

 窓辺に立って、水滴で濡れるガラス越しに街を見下ろす。自分の姿が少しだけその街に映りこみ、自分が生きているのだと実感させらる。いつも来ていたベストも、被っていた帽子も、今は身につけていない。ズボンとワイシャツも、あの頃のものと変わって真っ白な、一回り大きいそれを着ている。
 どうしてこうなったのか。と考えようとしても、考えるのが億劫になる。少し前までなら、もっと考えを巡らせることが出来たはずだ。だがその少し前も思い出せない。
「虎徹さん?」
 呼ばれて振り返ること無く、虎徹はガラス越しにうっすらと姿を現したバーナビーを見つめた。
「どうか、しました?」
「いや……何か色々、混乱してて、な」
「混乱? 大丈夫ですか」
 ひたり、ひたり。足音が近づき、姿も鮮明になっていく。ゆっくりと後ろから抱きしめ、力を込め腕を腹の前で組んだ。唇を耳元に近づけ、匂いを楽しむ様に息をすった。
「ああ、たぶん」
「どういう感じなんですか、今」
「あ?」
「混乱してるって」
 街を、見下ろす。
「何か忘れてる気がして、な。何だろうな。もう思い出せないんだけどな」
「なら、思い出す必要なんてありませんよ」
「バニー」
「僕がいるじゃないですか。他に必要なものなんて、無いですよ。少なくとも僕には、虎徹さんがいるだけで十分です」
「お前ホント、そればっかな」
 肩を揺らし、虎徹は組まれた腕に指を這わせ笑った。さっき唇を寄せた手の甲に、円を描くように指先をゆるゆると這わせ、その軌跡を眼で追う。
 何を忘れている。
「僕を、忘れられたら困るじゃないですか」
「俺がお前を? んな事あるかよ」
「何で言い切れるんです?」
「だってお前は……俺の……」
 俺の、相棒。
「俺の?」
「相棒、だろ」
 記憶が掠れる。
 ガラス越しにバーナビーを見つめた。
「ええ」
「なぁ、バニー……何を忘れてる、俺は」
「忘れていられることならば、思い出す必要性はないですよ、虎徹さん。記憶なんて曖昧なんですから。貴方が今感じている、忘れているという感覚も、もしかしたら事実では無い可能性だってあるじゃないですか」
 手を挙げ目を隠すように添えた。唇を薄く開き、びくりと身体を震わせた虎徹を見つめたまま、バーナビーは虚ろに目を細めた。我ながら、正気の顔ではないと思った。だがそんなこと、もう随分前にわかっていた。
「疲れてるんですよ。僕も、虎徹さんも。寝ましょう」
 視界を手に覆われたまま、虎徹は小さく数回頷いて答えた。ベッドへとつれて行く前に、バーナビーはだらしなくさらけ出されている首筋に、唇を落とし歯を立てた。
 びくりと身体が震えた虎徹の目元から手を降ろした。
 虚ろな瞳とガラス越しに視線が絡みあった。
 
 まる二日の不眠と空腹に倒れ掛けた時に手を差し伸べた。突然の理解不能な行動に数々に、虎徹は声を荒げ、感情をむき出しにしてバーナビーの胸ぐらを掴んだ。それももう過去の話しになってしまうが。手を差し伸べ、一時的に回復させた後、再び暗闇へと放りこんだ。
「バニー!」
 別に睡眠を妨げるつもりはさらさら無かった。勝手に彼がそれを選んだのだとバーナビーは考えている。実際そのはずだ。眼を閉じて暗闇の中で更に瞼の裏という暗闇を見つめ、ゆっくりと呼吸を繰り返していれば眠りに就けるはずだ。
 その間、バーナビーはパソコン以外の、他者の個人情報が登録された、外部への連絡手段を全て断ち切った。
 堕とそうと決めた。
「僕はもう、貴方がいれば十分なんですよ、虎徹さん」
 本来、見なくてはいけない世界を全て見ない事にした。背を向け、眼を閉じ、耳を塞いで。それがどれだけ逃げに徹することかも理解していた。それでもその道を選んだ。
 今まで信じて、疑うこと無く走り続けた道が、実は脇道で本道はもう見えないぐらい霞んでいる。ならば何を信じていけば良いのか。考え、一人暗闇の中で蹲っていたところに彼は来た。そして、彼がいればそれが自分の全てだと、唐突に理解して、バーナビーは顔を上げた。
 今までの彼を知っているものならば、誰もが目を疑う程にやつれた病的な面持ちで。
 死という選択はない。自分が死ぬにしても、彼が死ぬにしても。死ぬというならばそれは同じ時間に、同じように死ななくては、バーナビーにとっては意味がなかった。
 
 ベッドを先に軋ませた虎徹は、バーナビーの頬に手を伸ばした。以前まではその手首に何かが巻かれていたはずだ。白く少しだけ色が違う部分が、そう言っている。だがもう思い出せない。じっと手首を見つめていた。それを遮るように、バーナビーの手が手首を掴んだ。肌より白い指が巻き付く。
「どうかしました?」
「いや……何か頭が混乱してるみてぇなんだけど……寝たら治るだろ」
「そうですか。じゃあ、今日は無理しないで、寝ましょうか」
「いいのか、お前は」
 申し訳なさそうに、少しばかり羞恥に頬を染めた虎徹の言葉に、優しく微笑み返した。
「ええ。焦ることはありませんから。だって貴方はもう逃げないじゃないですか」
「逃げる? 俺が?」
「ええ」
「そんなこと、あるはず無いだろ」
「ほら。だから、僕も焦りませんよ。これから先時間はたっぷりあるんですから。悪いことは寝て忘れましょう。少しは気も晴れるはずです」
「そっか……そうだよな」
 記憶に蓋をすることは簡単だ。あとはその先にもう少し手を加えればいい。少しの薬と少しの刺激。絶妙に調合し与えていくことによって、様々なものを変えていく。
「寝ましょう。ちゃんと僕はいますから、ね」
「なんだよそれ」
「だって、虎徹さん。僕が居ないと駄目じゃないですか」
「そりゃそうだけど、寝る時ぐらい大丈夫だろ」
「駄目ですよ。そういう問題じゃないんです。僕も心配ですから。好きでやってるんで」
 刺激は何だってよかった。痛み、快感。繰り返し与えていくことによって、虎徹の身体に、脳に刻み込んでいく。 
 ある日それは唐突に現れた。
 いつものように倒れかけた彼に向かって手を差し伸べ、再び暗闇に突き落とそうとした時。何度も繰り返したその行為に、そろそろ結果が欲しかったのはバーナビーだったが。それでも、いざ目の当たりにしたときは、我ながら汚い笑みを浮かべたものだろうと思う。
 ドアを閉めようとした。鍵を付け、この時のために備えた寝室に。虎徹を閉じ込めている間、自分はリビングで寝ていた。別にそれに問題はなかった。
 閉めようとしたドアに指先をはさみ力を込めた虎徹は、濁った瞳でバーナビーを見上げた。
「無理だ、もう」
「何がです?」
「耐えられるか!」
 ドアを勢い良く開き、虎徹はバーナビーの腕を掴んだ。指先が白く色を変えるほど強く。
「何がです? 暗闇が? ならば電気をつければいいですよ」
「違う! お前がいないことに……耐えられるか……」
 笑った。
「僕がいないことに?」
「側にいてくれ……耐えられない」
「何でです? いるじゃないですか、同じ部屋に同じ空間に。これで側に居ないとでも?」
「違う! それじゃ駄目なんだよ! 見えるところに、いろ。すぐに声が届くところに……少しだけなら、大丈夫だ。けど、この状況はもう……限界だ」
「どう限界なんですか、具体的に」
 これはただの興味だった。
「吐き気がするんだよ。お前が居ない、部屋に一人っていう現実を認識すると。暗闇が怖いとか、そういうんじゃなくって。お前が居ないことが、怖い」
 その言葉に笑みを浮かべた。満足した笑みを、虎徹に見せること無く。力を込めて抱きしめた。あやすように頭を撫で、優しい声で名前を呼ぶ。何度も何度も繰り返し。
 堕とせた、と確信しながら。
「虎徹さん、もう逃がしませんから」
「逃げるわけねぇだろ……馬鹿か、お前ッ」
 その言葉に歓喜したが、まだこれは序章に過ぎないのだと言い聞かせ、髪に唇を落とした。

END