透明世界

 ガラスに煤を塗りつけて行けば行くほど外は見えなくなって、目の前は真っ暗になる。それが今までの僕の世界だとしたら、そこに引っ掻き傷を付けたのが彼だ。面白半分で付け始めたらしいソレは、いつの間にかガラスすべての煤を取り払ってしまった。
 すると今まで見えなかった世界は思った以上に綺麗だった。ソレ以上の言葉が出ないほどに。綺麗だった。
 だから、いつの間にかその世界を見せてくれた彼は僕の中で、重要な位置を占めるほどになっていて。
 だから僕は。

 誰かと話しているのが気に食わないというのは序の口で、誰かと一緒に居るのはもちろん気に食わない。最も一番気に食わないのは、彼が大事そうにしている指輪なのだがソレは口にだして言わないし、気にしないようにしている。それも含めて彼だと思えば、別に気にならないーーといえば嘘になるが。
彼は優しい。誰にでも優しい。ソレはつっけんどんに接していた僕にでさえ発揮されたのだから、賞賛に値すると思う。
 お人好し、お節介、世話焼き。その手の言葉はすべて彼のためにあると思ってもいいかもしれない。
 忙しくなってから、彼と僕が一緒にいる時間は飛躍的に増えた。
 今まで別に行動することもあった取材などの仕事も、殆ど二人で呼ばれるようになったのが原因の一つ。周りも手のひらを返したように彼に接するようになった。彼は調子に乗ったフリをして話す事もあるが、実際はそんなこと無い。ソレが彼だ。
 調子に乗った台詞を吐く彼に、ソレを咎めるような、でも今までより刺が無い言葉を選んで口にすると、彼は苦笑いを浮かべる。
 時折、移動という短時間の間に彼は惰眠をむさぼる時がある。その時は無表情に、無防備にさらけ出した姿を見て僕が苦笑いを浮かべる。

 そういう時、彼をどこかに閉じ込めてしまいたいという煤にまみれた、それ以上に黒い欲望が頭をもたげる。

 伸ばした手を、どうするか。
 このまま首に触れて力のかぎり締め付けるのか。それとも目に触れて少し力を込めればそのまま眼球を潰すことぐらいできるかもしれない。もしくは、あるいは、どうすれば。
 ふと我に返った僕は伸ばしていた手をそのまま彼の額にあて、前髪を軽く梳いてやって、手を引っ込めた。
 
 無意味だと分かっていても、彼と血が繋がっている存在というだけで彼の娘にさえ嫉妬を抱くのだから自分もどうかしていると、最初思った。最初だけだ。まだ僕達がコンビを組んだばかりの頃、僕が助けたあの少女が彼の娘だと聞いて、あの時の彼を思い出した。そうか、と納得しながら、彼が溺愛している様子を横目に苛立ちを隠せなかった。
 だから、電話を切った彼が幸せそうに笑いながら話すのを聞いて、その姿を歪めたくなり僕は手を伸ばし、唇に触れ、無理矢理に抱いた。
 とは言っても、何度もそういう関係にはなっていたから、最初こそ嫌がったけれど。それだけだった。

僕を見上げるその瞳に、僕以外のものを映したくなくて僕は瞼に口づけた。軽く歯を立てて、薄い皮膚を噛みちぎるように。両手首を、皮膚が、骨が、筋肉が悲鳴をあげるのではないかというほど力を込めて握りしめて、ソファーに押し付けて身動きを取れなくさせた。
 このまま舌を抉りこませてーーと思ったがやめた。
 彼に嫌われるのは本望ではない。 
 ただ、翌日彼の片目を僕がそうしたからか、ものもらいになったらしく彼の片目だけが一時的に奪われた。
 文句を言いながら眼帯をした彼は、遠近感がおかしくなったので小さな段差でこけそうになった。笑いながら僕は彼の身体を支えた。彼は僕に文句を言った。
 何とでも言えばいい。
 一時的にでも、その片目が何も映さなくなった事に、僕は歓喜していたから。
 何も映さないなら、僕以外のものは映らない。たとえ僕が映らないとしても。

 僕以外が映るより何倍も何十倍もマシだ。

「どうした?」
「え」
「行くぞ、バニー。つかお前が前歩け」
「手、繋ぎます?」
「馬鹿言え」
「こけるじゃないですか」
「誰のせいだよ」
「僕のせいですね。嬉しいです」
「ん?」
「行きますよ、虎徹さん」

 彼の手を握った僕の手に、少しずつ力を込めた。でもまだ時じゃないから、僕は彼の手を引いた。
 新しい世界は、今までの世界より優しく、明るく、僕に未来を見せてくれる。今まで過去しか見ていなかった僕が、未来を見ようと思うなど考えもよらなかった。その未来がどれほどまでに辛いものでも構わない。
 共に、隣に、世界が僕のものになるというなら。
 世界は優しい。
 こうして僕が歪んでいくのを甘受してくれるのだから。

end